3回に渡り、元町4丁目に関するエピソードをご紹介
四丁目見納めの未明
浪花屋 藤木 聡子
昭和二十年三月十七日未明、警戒警報が発令され、神戸方面に敵機は向かっているとのことで、町会長、警防団長の父は町内の人々に本通りへ終結してもらい
「今回の空襲は避けられないと思うので一刻も早く山の方へ逃げてもらいたい。家や町は警防団員が極力守るから」と話したのでした。母は
「皆さんよく見ておいてください。これが元町の見納めだと思います。逃げるときは必ず風上に逃げてください」。
みんな防空頭巾に、最低必要なものの入った布袋を肩からかけました。三回目の召集令状がきたばかりの義兄が、風邪をこじらせて、しんどいから地下壕に残るという姉を説き伏せて背負い、二人の姉もそれぞれ幼い弟と妹を背負い、母を中心に一家九人がぞろぞろと元町通を東に向かい一丁目から穴門筋、鯉川筋を北へ上り、北野の移民収容所の前から追谷墓地を抜けて金星台へと逃げました。
一機が先に飛んできて照明弾を落とすとパーと一面明るくなり、まちの姿が映しだされるとすぐB29の編隊がブオーンブオーンブオーンと紀伊水道を北上、まともに神戸を襲いました。まず海岸線がやられ、見る見る一帯が火の海になり、激しく燃え上がりました。B29の編隊はつぎつぎと襲いかかり、山側をやり、最後にまん中をとはさみうちです。
機体から米軍人がわたしたちをみてニタと笑って白いマフラーをなびかせているようにさえみえました。ビュ~ンシュルシュルと焼夷弾を落とす音が耳にいまも残っています。
B29は、父は警防団本部のみきもと真珠のビルの屋上でどうしているかしら、とてもこの焼け様ではと、心配になりました。十九歳のわたしと十八歳の妹は、みんなを守らなければと気負っていました。
警戒警報が解除になって、何時間かたって、妹と二人で探しに降りて行きました。花隈の坂を下り、東郷井戸のあたりまできたときです。
父がひょうひょうと上がってくるではありませんか。
あたりは焼け野原、火はくすぶり、煙はもうもうです。ガラスは溶けて曲玉のようになり、ひとっこ一人いません。わたしと妹は父にとりすがって泣きました。
「お父さんよくご無事で」
父の顔は眉毛も長い髭も焼け、目はただれ顔は赤く、鉄かぶとはべこべことへこみ、地厚の紺のオーバーは火の粉で焦げ跡だらけです。両手にばけつを持ち、湯になっている防火用の水を体にかけながらとぼとぼと山手に向かってくるところだったのです。
奇跡でした。こんなところで会えるなんて神仏の加護を深く感謝しました。
あのとき逃げてなかったら、元町の人々はたくさんたくさんなくなっていたと思います。
三月十七日の空襲では元町四丁目全体で一人だけ亡くなったことをあとで聞きました。
昭和20年3月17日、神戸上空に飛来したB29は、
みるまに市内各所を焼ケ原にした。元町三丁目から4丁目の方をみる。